PRESSMAN | 共栄堂

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社史・沿革

他人を責めず誠心誠意事に尽くす

中谷潤
顧客ニーズと時代の風を読んだ経営で発展
印章彫刻。職人の技術を学ぶ

人と人をつなぐコミュニケーション。人々が集まり社会を形成すれば、情報を伝達する手段が必要である。その一つが印刷技術だ。既に7世紀から木版印刷が始まり15世紀の活版印刷の発明は、産業の発達や人々の営み、街の成長など、後の社会に大きな影響を与えた。
川崎の街の戦後の復興から高度経済成長へと流れる中で、株式会社共栄堂は印鑑やゴム印の製売から印刷へと事業を広げ、企業や人々のコミュニケーションをサポートしてきた。70年を超える歩みの中で、川崎の街とともに成長した。

共栄堂の創業者・中谷澗は東京・品川の生まれ。戦前、愛宕山のNHK下、田村町の印章店で印章彫刻の修行をした。印章彫刻はまず、文字を覚えることから始める。
「印刷屋の多い東京では、活版印刷に使う鉛製の活字が必要です」印刷職人は活字を外注に出す。既製活字にない特殊文字を作るのも印章店の職人仕事だった。
潤には朝日新聞社や同盟通信社から指名があった。新聞社では記事をいち早く印刷するために、氏名や珍しい漢字の活字が突発的に必要になる。潤たちは新聞社から注文が来ると、文字を箪耕者に書かせ、それを見ながら、指定の大きさと書体の木型を彫り、型屋に持ち込み、鉛の活字にして、納品した。
「行書体、草書体、ゴシック体に、マークも彫りました。濃淡もあるので、一回試し刷りをして調整後に納品します。『いつまでにほしい』『すぐにやってくれ』と注文があるので、寝ずに彫りました」1941(昭和16)年、印章店で修行を積んだ澗は独立して、品川の城南小学校の近くに店を出した。
まだ、20代前半。新橋や銀座に顧客が多く、作った印鑑を自転車で配達した。今もその辺りの街には詳しい。澗は店を蒲田駅西口に移したが、程なく召集令状が届いた。開店したばかりの店を父・宏成に任せ、出征した。宏成も文字には造詣が深く、請われて品川区役所の筆耕の仕事もしていた。

川崎駅西口で共栄堂を再開

戦時中、日本陸軍は作戦遂行上、印章技術者を必要とした。召集令状が届いた潤は道具を持って、中国の前線に向かい5年間、戦地で過 ごした。
「印章技術者は、入隊時に体が丈夫で、字が書けて、印鑑が作れなければなりません。戦死者が出たときなど、急に書類を作らなければなりません。『すぐに彫れ』と。文字を左右裏返しに書いて、彫ります。なかなかきれいに彫れません」
95歳になる潤の人生の中でも、戦地で印章を彫るのは強烈な体験だった。後に戦友たちと中国での思い出をまとめ、その記録「大陸縦断回顧録」を共栄堂で製作した。
戦後、品川から蒲田界隈は空襲で焼け野原となって、街は見る影もない。戦地から復員した潤は親戚のいる小杉に向かった。ちょうどその家の前には潤の母、ともが立っていて、
汚れた格好でリュックを背負っていた潤を迎えた。
戦後の混乱の中、潤は川崎駅の西、現在の南河原中学校の前で共栄堂を再開した。小さな店だった。
ほぽ同時期に大塚トミ子と見合い、結婚し、所帯を持つ。潤は店で印鑑を彫りながら、自転車で営業に回った。手広く建設会社をやっていたトミ子の実家の伝手もあり、西口に工場のある明治製菓や塚越の東洋通信機など、顧客も増えた。
奥まっていた店は商売がしづらく1950((昭和25)年、共栄堂は将来を見据え、西口大通りに店を移転した。当時の西口大通りは現在の様相と全く違う。駅を出るとすぐに東芝の本社や明治製菓の工場があり、日中は人通りも少ない。潤はそこに平屋の店舗兼住宅を建てた。

初代 中谷安吉
初代 中谷安吉

二代 中谷 潤 陸軍時代
二代 中谷 潤(陸軍時代)

約50年前の川崎駅周辺
約50年前の川崎駅周辺
・川崎市立中原図書館所蔵 ・小串嘉男さん撮影

自らの戦争体験を戦友達とまとめた『大陸縦断回顧録』
自らの戦争体験を戦友達とまとめた『大陸縦断回顧録』

初代 中谷安吉
初代 中谷安吉

二代 中谷 潤 陸軍時代
二代 中谷 潤(陸軍時代)

約50年前の川崎駅周辺
約50年前の川崎駅周辺
・川崎市立中原図書館所蔵 ・小串嘉男さん撮影

自らの戦争体験を戦友達とまとめた『大陸縦断回顧録』
自らの戦争体験を戦友達とまとめた『大陸縦断回顧録』

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