PRESSMAN | 共栄堂

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社史・沿革

他人を責めず誠心誠意事に尽くす

中谷潤
街に育てられた高度成長期

パソコンはもちろんコピー機もない当時。書類は手書きで、大量伝達 の謄写版しかない。印刷は部外者にとって全くのブラックボックス。
企業はささやかな文書でも、株主総会の議事録でも、作成を印刷業者 に任せた。企業の購買窓口に行けば、毎日のように印刷の仕事があった。
「印刷は仕事になる」
印鑑やゴム印の営業で企業を回るうちに、潤は印刷の将来性を感じた。
店舗を二階建てにして、一階にはタイプと軽印刷の機械を揃えた。
舗道に面した店舗ではガラス越しにタイピストが仕事する姿が見える。
「ここで印刷をやっている」。毎日、店の前を通る東芝柳町工場の社員から仕事が持ち込まれトミ子が対応した。一つの仕事から信頼が生まれ、長い取り引きが続くことも多かった。顧客も広がっていった。優れた技術に市役所からも声が掛かった。そして、店は敷地を広げ、当時珍しい木造三階建てに改築した。

「今考えてみれば、立地に恵まれていましたね。川崎の街に育てられた んです」

仕事が増えると、潤は東北の学校を回って、社員を集めた。印刷職人や営業社員、タイプのオペレータ、住み込みのお手伝いさんまで含めると社員は30人近くにもなった。会社で用意した寮にはいつも6〜7人が暮らす。若い社員やお手伝いさんを一人前に育て送り出すと、彼らの親族の弟や妹や近隣の若者が入社した。それをまとめたのがトミ子だった。

1959(昭和34)年4月「駅ビルかわさき」が誕生。共栄堂は4階に駅ビル営業所を出店した。店長はトミ子。肝っ玉母さんが切り盛りする店には、テナント企業にもファンが多く、判やゴム印から伝票類まで、そのつながりが取り引きを生んだ。たまたま会社設立の判を作った顧客が「判のおかげで商売が繁盛した」とわざわざ日本橋から訪れて新しい会社の社判を作ることもあった。
潤も印鑑類の作成は弟子の安西に任せ、印刷関係に力を注ぐようになった。1959(昭和34)年、共栄堂は株式会社に改組し、印刷の生産性を求めて南加瀬に工場を建設した。

昭和40年代、景気が上昇するとホテルの婚礼関係の印刷物が増えた。
きっかけはトミ子が作った。オープン間もない駅ビル川崎に隣接する川崎日航ホテルの仕事だった。そしてウェディングブームとともに、ホテルKSPや横浜市内のホテルまで広がった。豪華なものが好まれ、売上げもボリュームがあった。昭和50年ごろをピークに県内でも一、二に数えられるほど、婚礼関係の印刷物を取り扱った。

昭和34年本社(現在地)前にて社員と記念撮影最前列右から4人目が創業者中谷潤。その左が克宏現社長
昭和34年本社(現在地)前にて社員と記念撮影
最前列右から4人目が創業者中谷潤。その左が克宏現社長

昭和39年台風により浸水被害にあうも営業は継続した。
昭和39年台風により浸水被害にあうも営業は継続した。

南加瀬に建設した工場
南加瀬に建設した工場

電算式写植機も積極的に導入
電算式写植機も積極的に導入

昭和34年本社(現在地)前にて社員と記念撮影最前列右から4人目が創業者中谷潤。その左が克宏現社長
昭和34年本社(現在地)前にて社員と記念撮影
最前列右から4人目が創業者中谷潤。その左が克宏現社長

昭和39年台風により浸水被害にあうも営業は継続した。
昭和39年台風により浸水被害にあうも営業は継続した。

南加瀬に建設した工場
南加瀬に建設した工場

電算式写植機も積極的に導入
電算式写植機も積極的に導入

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